2015年 04月 10日
奥村彪生箸「日本のめん食文化の1300年」を頂いた
今日は みさき里山クラブ定例活動日である
雨の天気予報だったので 朝6時に起きて外を見れば 間違いなく雨である
雨の中 歩いて郵便局まで歩いて 奥村彪生君への礼状のハガキを投函に行った
今の淡輪郵便局内の展示コーナーは切り絵である
自身の著書「日本のめん食文化の1300年」(増補版)を贈ってもらった
これは学位論文を基にした著作で
この「うどん研究」の学位論文で この年 学術博士になった
「美作大大学院で
『日本のめん類の歴史と文化』と題した博士論文提出し 審査に合格して博士号を頂いた
うどんのルーツは中国ではなく、日本だった
中国のワンタンがうどんの起源とする説に 料理人の立場からそんな疑問を抱いていた
この説は 昭和初期の 中国文学者青木正児京都大教授(故人)が発表
今ではうどんの起源として最も有力な説となっている
青木説は ワンタンの中国表記である「コントン」のコンは
食へんに「昆」と書き トンは饂飩(うどん)の飩だが
コンを食へんに「軍」と書くことがあり、ウントン、ウンドンとも読む
これが読みの同じ温飩になり、饂飩に変わった起源を探ろうと、
三十年かけて中国各地で麺を食べ歩き、日本国内の古文書を読みあさった
結果、中国には、湯で温めた麺をつけ汁につける うどん本来の食べ方がなく
饂飩の「饂」の字もないことが分かった
うどんが切り麺ということに着目し 切り麺の歴史をさかのぼった
切り麺が中国から伝わったのは鎌倉時代
中国の切り麺の歴史をひもとくと、唐代に[ぷとう]と呼ばれる切り麺がある
これが発展したのが「切麺[ちぇめん]」で、宋代に盛んに作られるようになる
そして、この切麺が1200年代前半、留学僧によって伝えられ、日本で「切麦[きりむぎ]」と呼ばれた
切麦は中細麺で、今の冷麦のことだ
「この切麦こそがうどんの祖先」
[それでは、切麦がどのようにうどんに変化したのか
江戸時代の記録などによると、うどんは、ゆでた麺を水で洗った後
熱湯につけ、つけ汁につけて食べていた 今でいう「湯だめ」だ
中細の麺を湯につけたのでは、どうしても麺が伸びてしまう
そこで、湯につけても伸びないよう発明された
専用の太切り麺こそが、うどんというのだ
うどんが初めて文書に登場するのは南北朝時代の1351年
法隆寺の古文書に出てくる「ウトム」がそれ
うどんの記述はその後、京都の禅寺や公家の記録に頻出する
留学僧によって切麦が伝えられたのが1200年代前半
当時、中国へ渡る留学僧は禅宗の僧が中心だった
こうした経緯から 「うどんは、1200年終わりごろ、京都の禅寺で生まれた」
初めて記録に登場するのは奈良だが、
その後の記録の多くが京都に集中していることから 「発祥の地は京都とみるのが妥当」
麺をつけ汁につける食べ方について
「食べ方に美しさを求め、素材そのものの味を味わう禅宗の考え方につながる 中国にはない食べ方だ」
起源を探るもう一つの手がかりが饂飩の文字だ
うどんが禅寺で生まれたとの前提で
中国で[ぷとう]と呼ばれていた切り麺 これを湯につけるから「温扽[うんとん]」
食べ物なので、「温」のさんずいを食偏に改めて「饂」と作字し
中国の餛飩の「飩」を参考に「饂飩」と書いたとみる
「禅宗の言葉は濁点が多い。饅頭[まんとう]を『まんじゅう』
点心[てんしん]を『てんじん』と読むように
饂飩も『うどん』と読んだのではないか」と推測する」
…(四国新聞・朝日新聞の記事参考)
初版本に その後の研究を書き足したものが増補版のようである
高校生時代は おとなしい静かな生徒であったが
料理研究家になるとは予想も出来かったし まして博士になるとは 驚きである
有名人になってからも 和工の同窓会には優先して出席していて
出てくれば 無料で講演もさせられていた
その模様はブログに書いている
2007.7.14.「和工電気科昭和31年卒同窓会」
今日のような終日本降りの雨の日は じっくりと「うどん研究」が出来そうである